「ひらいて」を考えてみた
作間くんが西村たとえ役で出演することが解禁されすぐに読んだ原作、綿矢りささんの「ひらいて」。2時間弱で一気に読み終えた本の厚さとは裏腹に濃厚でボリュームのある内容に読了後なかなか興奮が収まらなかった。
あれから早数ヶ月、何だか読むのに体力と気力が要るからと遠ざけていた「ひらいて」ともう一度向き合ってみた。そしたら少しだけ自分なりの解釈が掴めたので備忘録的な感じでここに書いておこうと思う。
考察文なので当たり前のことを言うがこの先原作ネタバレしかないので映画観るまで原作読まない派のひとは読まないでください。
愛は鶴を折っている。
p.54で愛はたとえへの感情を抑えるためにひたすら千代紙で折り鶴を折っている様子が描かれている。「春から折り続けている」とあるが、この”春”が指すのは愛がクラス替えを経てたとえと再会し恋に落ちたときを指していると思われる。つまり愛の折り鶴の量はたとえへの恋心の蓄積といえる。
同ページに「折る、と、祈る、という字は似ている。」とあるように、愛が鶴を折るという行為は、たとえに対する祈りであるのだ。自分の方を振り向いて欲しいという純粋な願い。
いきなり結末の話をする。
たとえが愛の頭に手を置き、「お前も一緒に来い。どうにかして連れて行ってやる」と言う場面。一度目に読んだ時は愛が言う通りまさにこのセリフがたとえから愛への許しなのだと思った。
でも、本当の許しはその後「でも鶴をもう、折ってなくて」と言う愛に対する「折れ」と言うたった一言にあるのではないかと思えてきた。
出会ってからずっと愛に気持ちを開くことのなかったたとえが、鶴を折ることを命じてくれる。鶴を折ることは愛がたとえを好きでいるということで、つまり愛がたとえのことを想い続けていいと、たとえ本人が許してくれたということだ。
たった二文字、されど二文字。この瞬間の愛には、「好き」よりも重く大切な、何よりほしかった言葉だったのではないか。
そう思うと、わたしが愛でも同じように泣いてしまうだろうなと思う。
「ひらいて」って具体的に何だろう。ひらがなだからそこには無限の解釈がある。
何を開くのか。
心、身体、折り鶴。わたしは、未来だと思う。
「て」の持つニュアンスは何か。
命令、接続。これは、願望のように思える。
高校三年生の受験期真っ只中。愛、たとえ、美雪の3人それぞれの“これから“を思い、未来をきり“拓いて“いってほしいという、3人それぞれの願い。それが「ひらいて」なのではないだろうか。たとえが愛にあげた「折れ」が「ひらいて」のように見えてくる。
どのシーンも楽しみだけど、再読してからいますぐに作間くんのたとえが発する「折れ」が聞きたくて、観たくて堪らなくなってしまった。まとまらないけれどこのままで終わりにしよう。明日起きたら10月22日になってないかな〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。おわり。